はじめまして。サステナビリティ分科会の田辺です。
サステナビリティ分科会の議論の内容についてはすでに幅上さんと章さんがそれぞれブログ上でまとめてくださり、今後報告書でも総括することを予定しております。そこで今回の投稿では京論壇全体を通して得られた感想や疑問を3点にわけて書いていきたいと思います。何か興味深い点があれば幸いです。
- 北京大生と議論をして①:価値観の議論について
北京大生はサステナビリティをどのように定義するのか、経済発展と環境が矛盾してしまう場合にどのようなバランスをとるべきだと考えるのか、PM2.5をはじめとする公害問題をどう思っているのか、環境問題解決にむけた国際的な努力への中国の関与をどう評価しているのか。サステナビリティ分科会の東大チームは、サステナビリティに関するこうした認識や価値観について東大チームと北京大チームとの間でどのような違いが見られるかに関心を抱き、こうした点を明らかにすることを目指しました。この議論の目的としては大きく二つのことが目指されていたと個人的には考えています。
ひとつは議論を通じて自らの考えを相対化することです。自分とは違う考えをもつ人と議論を交わすことで自分の考えがどういった由来や根拠をもつのかを知ることは大切な作業だと思います。たとえば、私たちの分科会では議論をする中で明らかになったチーム間、そしてチーム内の意見の違いに着目し、各人が考える環境保護と経済成長のあるべきバランスは実は自分の育った地域がどれだけ経済成長の恩恵を受けてきたかの度合いによるという仮説にたどり着きました。また、どれだけ国際協力に応じる責任があるのかを判断する際に重視するファクターは東大チームの中でも全く異なっていることが明らかになりました。こうした気づきは、自分があるものを大切だと思うのはなぜか、またその違いは本当に日中の違いに由来するのかという問題に答えるもので、問題を単純に日中の根本的な差違のようなものに帰着させないという意味でとても意味のある発見だと思います。
一方で、北京大生が関心を抱いていた実践的な解決策を東大チームは自分たちの問題意識と十分に結びつけられなかった点は反省すべき点だと感じています。というのも、そもそも環境問題に関し、実践的な解決策を議論することを重視するのかあるいは「認識」や「価値観」の議論を重視するのかという点はそれ自体重要な意見の相違であるのにも関わらず、私たちの分科会ではこの論点を見逃してしまったためです。技術的なこと、あまりに専門的なことは議論しないとした方針自体は間違っていなかったと思いますが、価値観や認識について議論するための論点をいわゆる実践的な話題から分離して想定したため、実践性を求める考えの裏にある価値判断やその由来にまで到達できなかったのだと思います。
認識や価値観について議論をする二つ目の目的として「同じものを目指さなければ目標を達成することはできないから」という、より踏み込んだ理由を考えることもできます。つまり、サステナブルな社会という目標達成のために主観的なレベルの違いを統一することを視野に入れながら認識や価値観についての議論をするということです。もちろん協力するうえで何らかの合意や共通の理解が必要であるという意味ではこの考えに一理あります。しかし、どういった主観上の違いがサステナブルな社会の実現をどの程度妨げているといえるのかという点を十分に明らかにできなかった以上、主観上の違いを全て是正しなければいけないものだとはどうも思えません。また、サステナビリティ実現のためにどの程度個人の主観に立ち入っていいのでしょうか。統一されるべき事柄とそうでない事柄はどう線引きするべきか、どういった手続きにそって決めていくことが公平なのか。たとえば今回歴史認識を扱った平和分科会であれば相互の誤解や悪感情は基本的に是正される必要のあるものと考えられるのに対して、サステナビリティの場合こうした問いには即答できません。したがってこのことを日中で議論することに大きな意味があったと思うのですが、今回は時間の制約で十分に議論できませんでした。
- 北京大生と議論をして②:コミュニケーション
サステナビリティを実現する必要があるという点、そして中国もまた気候変動に対して一定の責任を負うべきであると考える点で分科会のメンバー全員が合意をしたというと、「なんと楽な分科会か」という印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし実際は思いのほか議論が難航しました。国際的な枠組みをつくる際に参加国の包括性と枠組みの実効性のどちらをまず重視するのかという論点のほか、そもそも”Responsibility”や”Obligation”といった言葉の意味やニュアンスが微妙に異なることから混乱が生じ、共同して議論を組み立てることに東京セッション初日のかなりの時間が費やされてしまいました。これはかなり消耗する作業で、普段話せない北京大生と京論壇で議論をしているのだという意識があったからこそメンバー達も最後まで議論に参加し続けられた面も実際あったと思います。たとえ自分と考え方が近い場合であっても、議論に使う言葉の意味が微妙に違うため対話は難しいことに変わりはなく、根気のよさが要求されました。
そんなこんだで考え方が似ている割に消耗した経験の後で日常を振り返ると、自分は日本人と日本語でコミュニケーションしているときは東京セッションで費やしたほどのエネルギーを使っているだろうかという思いがふと頭をよぎります。振り返ってみると、実際にいろいろな人と会ってそう結論づけるというよりも、なぜか日本人(あるいは東大生)は同質的だとまず決めてしまっていたように思います。
- 北京大生を見ていて:現状認識と今後
サステナ分科会の北京大生を見ていて一つ印象的だったことに、自国で深刻な環境問題を抱えながらも気候変動を解決するためにどのような国際協力が望ましいかという点に強い関心を抱いていたことがあります。特に北京大生が内向きであると思っていたわけではありませんが、平和分科会ではテーマの一つとしてISISを扱いたいという予想外の意見がでたこともあわさってか、中国の大学生の一部は国際的な協力のあり方に強い関心を抱いているのだなという印象を受けました。
日本のメディアでは中国の学生に関する情報は「それに比べて日本の若者は」という嘆きや否定的な若者論とともに受け止められることがしばしばあります。
では自分は一体誰で、現状と今後をどう理解して行動するべきなのだろう。北京大生を見ていてあらためてこの疑問に直面しました。自分が日本人であることを過剰に意識して中国人に対抗心を燃やすのは幼い気がします。一方で、東アジアの人間の一人としてただ喜ぶには時期尚早で直感的に無理があるように思えます。正直、まだはっきりとはわかりません。
京論壇で2週間北京大生と議論をした今、私は中国の優秀な人たちが今後さらに活躍する世界はこれまで以上に面白いものだろうとひとまず単純に捉えています。より多様な人間の集団のほうが同質的な集団よりも面白いと感じられるのであればそう考えることはできると思います。それに実際、2週間彼らと議論をしていてとても楽しかった!
京論壇での活動を振り返ると、何か結論や教訓を得られたというよりも模索すべきことがいくつか現れてきたというほうが正確な気がします。そのためこの文章も煮え切らないままになってしまいましたが、ここは結論を急ぐのではなく、今後模索するべきことをひとまず明らかにしてこの文章を終えたいと思います。
最後になりましたが、京論壇2015の活動を応援していただいた全ての方に厚く御礼申し上げます。
文責:田辺 啓悟