「中国」と聞くと、なんとなく抱くもやもや。
この形容しがたい、しかしどこかネガティブな感覚は、日本人の多くが一度は経験したことがあるのではないだろうか。
北京セッションで私たちが目指したのは、「これら相互不信が発生するメカニズムを、自分たちの感覚や経験に正直に解明すること」だった。既存の学術理論や外交政策を振りかざし合うだけでは、自分たちの日々の感覚から乖離してしまう。地に足のついた実感ベースの意見の応酬の中で、互いの行動の背景にどういう価値観があるのか、その価値観の相違がどのようにして不信と翻訳されてしまっているのか、をあぶり出すことこそが狙いだった。
全発見を並べ連ねるのも能がないので、ここでは私の独断と偏見に基づく取捨選択により、暫定版最も面白かった発見をおすそわけすることとする。過度な一般化は避けたいので、あくまでこれらは北京大生と東大生の議論に基づく示唆として、「そういう考えもありね〜」的なスタンスで読んで頂きたい。
それは、中国人の価値観の中心に存在する中華思想について。
世界史で古代中国を習うと出てくる、中華思想。古代中国の学習という文脈で習うときには、当時の民族的優劣意識とかが絡まってきてしまうのだが、今回考えたいのはもっとずっと広義の「チャイナ・アズ・ナンバーワン」という意識のことである。
近年の経済的発展を背景に国際社会における中国の存在感が高まっていることは、誰しも認める事実だろう。しかし、中国が主導的役割を果たそうとすることは何かと、中国を脅威とする論調を生み出しやすい。加えて、領土問題をめぐる行動などは周辺諸国をはじめとする国際社会に、中国はルールを守らない、 独善的で拡張主義的だ、という意識をも与える。
批判の妥当性・不当性はいったん脇において、なぜ中国がこうした行動をとろうとするのか、中国の根底にある行動原理は何か、ということを考えてみたとき浮かび上がってくるのが、未だ中国人の中に根付く広義の中華思想なのである。
多かれ少なかれ、どの国も自国文化にはプライドがあるし、できるものなら力ある国になりたいと思うものだろう。日本だって、新旧問わず自国文化のユニークネスには相当プライドを持っている方だと思うし、トヨタやソニーみたいな強い会社が再び日本経済をブイブイ言わせてほしい、あるいは、国連安保理の常任理事国になれたらいいのに、などという希望を持たないと言ったら嘘になる。しかし、中国のそうした思いと自負は、日本のそれとはまた少し別格なものであるようだ。彼らの中には未だに、唐だとか清だとかいう世界的強盛を誇った王朝像が、回帰すべき自国像として息づいている(理想の中国像として唐が真っ先に挙がった時は思わず、「え、それ真面目に言ってるんですか」と東大側は目を丸くした)。そして自国の文化や価値観へのプライドは、みんな違ってみんな良いという金子みすゞ的なオンリーワンマインドというよりも、自分たちの在り方こそ素晴らしいというナンバーワンマインドに基づいているらしかった。だからこそ、容易に欧米の価値観に迎合したいとは思わないし、なんなら彼らの方がこちらのやり方・考え方を尊重すべきだという考えに繋がる。これは、他諸国の文化に比した優位性というよりも独自性にプライドを持つ日本、国際社会における唯一のリーダーというよりもリーダーの一人であれば満足する日本とは、かなり異なる思考の前提であると思う。
北京大側と話していると、本来この文脈での中華思想は、いわゆる拡張主義だとか帝国主義などという実力行使による他の圧倒ということでは全くなくて、国として尊敬され牽引者として認められるということに主眼があるということ、また彼らが自国文化の偉大さを純粋に愛しているのだということがよく分かった。しかし一方で、現在の国際秩序の中で自分たちの在り方を通すためには、欧米が構築してきた秩序や他国の在り方といったものを受け入れず自らを押し付ける、というのでは上手く行かないのも事実だろう。あるいは、彼らに実力で他を圧する気がなくとも客観的にはそう見えるような場合があるということを彼ら自身が認識し、誤解が生じないように現状秩序の下での説明責任を果たしていくことが得策の場合もあるはずだ。
中国人の中に無意識にも根付く中華思想の本来の姿を日本人の東大生側が理解して、中国の拡大志向を好戦性と短絡的に結びつけないこと。一方で北京大側に対し、理想と現実の不一致が、主観的自国観と客観的中国観の乖離に繋がっていると指摘すること。これらは、両者間で互いの見解を臆することなく述べ合ったからこそ得られた収穫である。
上記の中華思想に関連して述べたい発見があと二つあるので、お付き合い頂きたい。
一つは、東大側が日本人として抱いていた中国へのライバル意識を、北京大側は日本に対して持っていなかったということ。彼らの論理は単純明快で、「あまりに国として違うから」。しかし正直なところ、これは私にとってかなり拍子抜けというかショックだった。
しかし北京大生曰く、日本と中国は地理的にも民族構成的にも政治体制的にも全く違う。確かに近年の中国の台頭でGDPなど両者が競り合う機会は増えたが、本来日本と中国は比較の対象になれないと思う。そして問われた——日本人の心の中に、中国の台頭という客観的事実を受け入れる用意はあると思うか?
悪気なく突きつけられて初めて、私は自分の中にあったのが、ライバル心というよりはむしろ嫉妬心であることを認めざるを得なかった。国としての根本的相違を前提とし、経済や国際的発言力において手法を違えつつ切磋琢磨することを目的とするよりも、そうした相違は度外視してあらゆる側面における漠然とした優劣比較に固執していたように思う。また、北京大側が日本の国際社会での行動を基本的にアメリカの意向と結びつけて考えていると知ったことは、日本という国の実力や立ち位置がそもそも客観的にはどう見られているかということを私に自問させた。
しかし一方で、そうはいっても中国人の日本への感情の中に、歴史問題などを抜きにしても残る何かしら複雑なものがあることもまた、真実であるように思われる。それがライバル心でも嫉妬心でもないとしたら、この「長年のお隣さんに対する奇妙な敵意」とは何なのか、それを紐解くのが今後の個人的課題だ。
発見のもう一つは、中国人として北京大側が持つ、政府への根本的信頼である。
中国と日本では、ざっくり言えば権威主義と民主主義という政治体制の異なりがある。東大側としては、民主主義の立場からすると不信の原因ともなりうる、権威主義における意思決定の不透明さや大衆操作性について北京大生がどう捉えているのだろうという疑問があった。蓋を開けてみると、平和分科会の北京大メンバーはかなり開明的で、民主主義の意思決定過程の価値そのものは認める声も多かった。しかしそれはあくまで理論上の好ましさであって、それを中国に適用することが中国にとって好ましいかということはまた別物であった。北京大側による、自国政治体制の最終的擁護。想定内ではあったが、これを自分の中でどう消化しようかと模索する中で、次のような考えに落ち着いた。
頭ではかねてから分かっていたが、今回北京大生と話したことで一層現実味を帯びて分かったのは、中国という国は日本人にはちょっと想像し難いような混沌を内部に抱えているということである。それは、国土の広さだったり、民族構成の複雑性だったり、国民の教育程度・経済状況の巨大な差だったりする。共産党一党独裁という在り方そのものが国際的に見れば特殊だということは北京大生も理解しているし、検閲やその他自由の制約に対し不満が存在することもまた事実である。しかし中国のあらゆる国内事情を鑑みたとき、現在の少数エリートによる意思決定や一定程度の自由の制限は、中国が中国として維持されるために必要だという感覚により、一定の諦観を伴いつつ正当化される。 絶対的教育格差のある中で、政府エリートの政治運営能力に対する根本的信頼は揺るがず存在し、そしてそれは共産党がこれまでもたらしてきた実際の政策成果により強化される。政府依存感覚も、日本とはかなり異なる。社会主義における国の役割の大きさという前提に加え、「政策による恩恵は政府のおかげである」という認識を国民に持たせる取り組みが徹底されていることもあり、中国では社会において何かが改善した場合それを民間あるいは個人の力とするよりは政府の力とする意識がまず働く。政策の実行プロセスで政府の存在が強調される中国と、政策のプロセスより結果が問われる日本とでは、政府の存在が意識される頻度も変わってくるだろう。
必要性ゆえの妥協と、政府の存在感の刷り込みと、実際の政策への満足。これら三つが混ざり合って、自国政治体制への彼らの信頼は成り立っているようだ。
いかがだっただろうか。
日中関係を考える土台となりそうな発見についてつらつらと書いてきたが、全ての議論を経て私たち東大側の中に生じてきた重要な気付きは、北京大生が中国人として自分たちの国を把握する感覚は、私たち日本人のそれと大して変わらないのかもしれない、ということだった。
上記のような中国の特殊性や日本との相違は、確かに存在する。教育や情報統制を通じて、政府が国民の意識形成に一定程度関与しているということも否定は出来ないだろう。しかし、洗脳されているとか自国の政治体制や政府を盲目的に正当化しているとして、彼らを正されるべき対象として捉えるのは筋違いと言える。中国で生きる中で彼らが自国の在り方や政府に対し肯定感を抱くようになるメカニズムは、私たち日本人が自由主義や民主主義を望ましい社会政治形態だと考えたり、日本政府に強くあってほしいと思ったり、大変革を必要とするほどには日本の現在の在り方が問題を抱えているとは思わなかったりすることと、そこまでかけ離れたものではない。
北京に行くまで私たち東大側の中にはどこか、「自国の在り方を盲信している北京大側に、(私たちが考える)真に正しい在り方を説いて納得してもらおう」という意識があったように思われる。しかしそれでは、何が正しいかに関する私たち側の盲信かつ押しつけになる恐れがあることに思い至った。彼らの知らない情報や批判について伝え、こちらの正しいと思うことをぶつけることは有意義だが、こちらの価値観が絶対的に正しいという前提のもと相手にそれを納得させようとするスタンスには、無意識の驕りを見出すようになった。それゆえ私たちとって難しかったのは、彼らの価値観や中国の行動のコンテクストが一定程度腑に落ちてくる中で、こちらの価値観の押しつけにならないよう意識しつつ、しかし両者間の不信の基となっている相違点をあぶりだすべく中国の在り方や彼らの考えに疑問を投げ続ける、という作業の両立だったと言える。
帰国後初めて中国に関するニュースを耳にして、はなからネガティブバイアスをかけることなく、北京大メンバーが真摯に語った自国論や彼らの顔を思い出している自分に気づいたとき、北京での10日間が私にもたらした中国観の変化を確かに感じた。
**********
ありがとうございました。
文責:杉原 真帆(平和分科会)