「平和」の二文字が新聞やテレビを賑わせています。多くの日本人の心性に平和主義が根付いているのは、学術的に異論はあれ、実感としては否定しがたいところです。その反面で、日本をめぐる情勢は緊迫の度合を深め、平和主義を再定義する試みもなされているなど、わが国での「平和」は実体・概念の両面において揺れ動いていると言えるでしょう。今年最も耳目を集める「平和」について、日中両国の学生の認識を浮き彫りにすることこそが、当分科会の使命にほかなりません。
上記の目的を達するため、6,7月の事前準備では、まず中国ならびにその国民に対して私たちが抱く不信の内実を、以下の三つの方法により明らかにしようと試みました。第一に、中国での反日感情が対中不信をもたらすという意見に基づいて、反日感情の根源を分析した学術文献をひも解きました。第二に、日中関係に暗い影を投げかけていると私たちが考える課題を列挙し、それらについて不信が生じるメカニズムを検討しました。第三に、中国に対し抱く漠然とした負の感情を言葉にし、どのような場合にその感情を感じるか内省しました。これらの方法により、北京大生にぶつけたい疑問を漏れなく洗い出すことに努め、次いでこれらを枠組に整理しようと試みました。
ところが、議論の過程で二つの大きな課題に直面しました。
一つは、「平和」という多面的で包括的な概念をいかに取り扱うか、という問題です。最狭義の、戦争の不在としての「平和」への具体的な道筋を論ずるべきか、不信を乗り越えた和解としての「平和」に的を絞って議論を深めるのか、はたまたガルトゥングのいう、構造的暴力の不在としての積極的平和にまで間口を広げて議論を展開するのか。何でも議論の対象にしうることと一貫性を失いやすいことは紙一重であり、テーマの広汎さゆえのジレンマがここに存在していると言えます。
もう一つは、先人の発見の追認に終わるのではないか、という問題です。たとえば歴史認識・領土をめぐる問題は、学術研究のみならず当団体でも繰り返し扱われてきたテーマであります。これを再度議論することにどのような意義付けをすれば良いのでしょうか。2015年の平和分科会だからこそ出せる価値は何なのか、自問自答する日々が続いています。
最後に強調したいのは、参加者全員がこのテーマを議論することに、高い好奇心と熱意と、そして誇りを感じているということです。「過去に目を背ける者は結局現在に対しても盲目となる」この意識が次第に参加者に浸透していることに、私は大きな満足を感じます。本番の議論に向け、一歩一歩精進してまいります。
文責:小野 顕(平和分科会議長)