敢えて言うが、京論壇に参加してみて、その在り方に疑問を抱いている。もちろん、京論壇の諸先輩方の努力を否定するつもりはないし、自分もまた京論壇の一員であることを差し置いてのことである。その理由を少し述べさせてほしい。
いささか単純化して言うならば、京論壇は、完全な意味での他者との交流ではない。異質なものに触れ、理解しようとすることを国際交流というのであれば、東大と北京大の学生だけが集って議論する場所にあるのはどちらかと言えば同質性であり、異質性ではない。我々は英語という異国の言語を操り、共通の西洋の概念を用いて議論し、同じような業界に就職する、同質な集団である。我々のテーマであった「社会的正義」にしたところで、議論して出てくるのはただ、自由や功利主義といった、西洋の概念の焼き直しに過ぎなかった。
勿論、エリートの同質性は、日中が同質であるということを意味しない。それは単に、我々がそれぞれの国の社会的・文化的文脈から半分遊離してしまっているということを意味するに過ぎない。我々の多くにとっては、過疎も、貧困も、不景気も、「社会問題」として論じる対象であって、自分たちの出来事ではない。東大生も北京大生も、そういった意味で、日本社会や中国社会の僅かな部分をしか代表していない。
このように言えば、たくさんの友人や先輩方からお叱りを受けるであろう。北京大の学生との議論で、彼らがいかに「安定」を重視するのか、聞いただろう。共同生活の中で、行動規範の違いがあることも、思い知ったであろう。やはり北京大生と東大生は違うではないか、と。それは確かに正しい。ただそれは、「これが私たちの発見した『違い』です」と、取り立てて言うほどのものであろうか?
正直に言えば、僕には「安定」という議論にしても、社会規範にしても、埋められない溝だとは感じなかった。受け入れられない議論もあるが、少なくとも相手が何を言っているかはわかる。意見が一致しなくても、理解できれば、話し合いはできる。説得もできるし交渉もできる。それが即座に永遠平和につながるわけではないが、中国のエリートを相手にする限りにおいては、平和の基礎はあるといってよい。
それより僕が深刻な溝を感じたのは、同じ日本人のはずの、相馬高校の先生と議論をした時であった。議論の一環として、先生をお招きして、被災地の高校生の思いを伝えるDVDを上映していただいた。原発の処理について国や県庁への怒りを口にする先生に対し、僕はなぜ先生が県庁や政府を「敵」と決めつける思考法になっているのか、ついに理解することができなかった。こちらの言葉とあちらの言葉がかみ合わず、まるで違う言葉を話しているかのように、議論だけが空を切る――深い絶望感に、3.11が我が国に残した溝を思い知った。
だから、エリートは、自分たちだけに分かる言葉でエリートだけの世界と交流していてはならないのではないか。外国のみならず、東京にも福島にも熊本にも沖縄にも、知るべきことがあろう。海外交流というなら、まず自国で何が起こっているのか、自分が身をもって知らなければならない。ここに自戒の念を込め、また僭越ながら同学諸氏に問題提起をさせていただいて、京論壇の感想に代えたいと思う。