私は普段から中国政治の動向に関心を持っている。私が所属するリーダーシップ分科会の他のメンバーよりも、中国についての知っていることは多いかもしれないと思っていた。そうした「知っていること」にこだわったことが北京セッションでの議論を混乱させた。このことに関する反省がこのブログの趣旨である。
北京セッションでの議論の中で最も印象に残っているのは、政治的リーダーと人々との距離感が日中で全く違うことだ。日本では、この距離感は近く、中国では遠い。例えば、日本ではメディアが政治的リーダーの政策や立ち居振る舞い、時には人柄にまで踏み込んで報じるのに対し、中国ではそれがないという。
また、リーダーシップ分科会の別のメンバーが北京セッションの総括で述べた、リーダーに対する寛容度の違いなども、こうした距離感の違いと関わっている。日本では、リーダーは誤るものとして考えられており、先述したようにメディアなどを通じて監視がなされている。そのため人々はリーダーについてある程度知ることができる。つまり、不信感が強い故に、距離が近いと言える。
一方中国ではリーダーに対する信頼は厚い。リーダーは、事前にリサーチされたことを元に、政策の基本的な方針についてのみ発言する。そして、トップから基層のガバナンスに至るまでに政策が具体化していく。政策がうまくいかなかった時の批判の対象は地方政府となるので、政治的リーダーへの信頼は崩れず、距離も遠くなるのである。
こうした距離感の違いを強く感じたのは、私が、中国の政治的リーダーに対する「個人崇拝」について北京大生に尋ねた時である。日本では、文化大革命50年を機に、「個人崇拝」に関して中国で起きている現象(政治的リーダーを讃える歌や絵)について批判的に報じられた。また、「個人崇拝」を匂わせるような現象は、日本国内では決して受け入れられないだろう。
まず、リーダーをたたえる歌があることについて尋ねると、北京大生の一人は、「あれは滑稽なものだ」という風に答えた。実際その歌の動画を一緒に見たが、北京大生は一様に笑った。
どうも納得がいかなかったので、翌日の議論で、「個人崇拝」について人々はどう思っているか、リーダーへの権力の過度の集中はまずいのではないか、などと質問した。しかし、北京大生にとって、「個人崇拝」について何度も問われることは心外だったようだ。やはり彼らとリーダーとの距離は遠い。たとえ東大側がその証拠となり得るようなものを提示したとしても、「個人崇拝」という、リーダーとの距離が極端に近づくようなことが現代に起きるとは、彼らは想像がつかないようであった。
この質問をめぐって、議論が大変混乱した。それは私が、私なりの視点にこだわってしまったからだったと言える。
「個人崇拝についてはわからない」「現実味がない」という北京大生に対し、なお「個人崇拝が起きたらまずいと思わないのか」などと聞いてしまったために、時間を無駄に使い、しかも得られたものはあまりなかった。リーダーとの距離感、及びリーダーへの信頼感が全く違っている相手のことを理解せず、このような質問を投げ続けたのはナンセンスだった。
私自身も、アメリカのメディアが日本の右傾化について書いた記事を読んで、この記事に書かれているようなことは起こっていないのではないか、と思ったことがある。北京大生も同じような気持ちだったのかもしれない。外から見えることと中から見えることは違うという、ある種「当たり前のこと」を、私は議論中に思い出すことができなかった。このことをよく反省し、東京セッションに臨みたい。
東京セッションでは、リーダーと情報との関係というテーマがメインになる。この中には表現の自由なども含まれ、非常に論争的で、興味深い内容となっている。今回の記事で述べてきた、リーダーと人々との距離感についてもさらに切り込めるのではないかと考えている。
価値観の違う相手との議論は、いくら事前に調査をしたところでかみ合わないこともある。それを自覚した上で対話をすすめ、時には謙虚に自分の見方や知識を見直す必要がある。
格好いい締めくくりの文章は思いつかないので、私が議論の最中に思い出すことのできなかった「当たり前のこと」を強調し、筆を置くことにしたい。
末筆ながら、北京セッションに関わって頂いた全ての皆様に感謝申し上げる。