北京セッション中に誕生日を迎えました、「人口と発展」分科会メンバーの三輪です。かつては円明園の一部だったという北京大構内の湖のほとりで、他の分科会メンバーからサプライズケーキまで用意してもらい、なんとも特別な体験になったと嬉しく思います。と同時に、扱うテーマの影響なのか、なんとなく悲観的に考えてしまう自分もいたりするのでした。高齢化が加速していくにつれ、「加齢=若者の成長=社会全体の成長」とみなされた時代は終わり、「加齢=老人の増加=社会の衰退」だと考える傾向が強まると考えられます。五木寛之が「嫌老社会」という言葉を用いましたが、老人を「負担」と考え、老いを嫌悪するのであれば、誕生日に生を祝うこともなくなってしまうのではないかと一抹の不安を覚えてしまいます。個人的には、こうした人口問題を考えていくときに生じる違和感を常に抱き続けたセッションになりました。
まず「人口と発展」分科会は、全体を見通すため、「人口問題はなぜ問題なのか」という大きなトピックから議論をスタートさせました。この問い自体においては、東大側と北京大側との間でうまく土俵を合わせて議論ができなかったように思います。しかしその原因を考えることによって得られる学びがありました。それは、人口変動はそのものだけでは問題とはなりえないということです。報道などでは、「出生率低下」自体が「悪」といった直線的な因果関係で語られることも多いと思いますが、より正確にいうとすれば、人口変動、社会経済システム、価値観の変化が互いに食い違うとき、問題となって立ち現れてくるのではないかということです。議論がかみ合わなかったのも、視点の遷移が問題の様相をいかようにも変えてしまうせいだと思います。
もう一つ大きな学びをあげるとするならば、「他者という鏡を通して自分を見る」という体験の片鱗を味わえたことでしょう。それは、「リタイア後の高齢者の就業促進」について意見を交換した際のことです。就業促進を肯定する側にたった私は、就業を続けることに金銭的な保障だけでなく、健康増進や社会参加の側面があるという意見で他のメンバーと合意しました。しかし、否定側のとある北京大生からは、「だって働くことはBurden(=負担、役務)でしょ、なぜリタイアしてからも働く必要があるの」と投げかけられてしまいました。個人的にはなぜかこの部分にギクッとしてしまったのです。
その北京大生は、長時間労働で有名な日本人こそ「仕事はBurden」であるという考え方が強いのだと思っていたようでした。私はまだ自分で生計を立てたことのない学生ではありますが、経験的にこの指摘は正しく、多くの人が「仕事はBurden」だと考えていることは間違いないでしょう。けれどもタテマエとしてはそんなことを言ってはならないし、就活でも「やりがい」や「自己実現」がなによりも先に立ちます。そして退職年齢を過ぎても働くことが良し、健康な限りは働く、と考えている人が多いという統計的事実があります。まとめると、現代日本の労働におけるにっちもさっちもいかない状況が見えてきます。つまり日本の労働環境で働けば、Burdenを負いすぎて「過労死」する可能性さえあるのに、老後に全く働かなくなると、社会参加の手段を絶たれ「孤独死」するという両極性があることを否めません。
そうした社会通念のなかに潜む矛盾が浮き上がってくるのも、一つの大きな発見でしたが、北京セッションを通して、東大側がよりこうした社会通念に対し、歪みや疑問を感じていることにも気づきました。こうした「噛み合わなさ」の程度が人口問題の深刻さを示しているのかもしれません。さあいよいよ後半戦、東京セッションが始まりました。より充実した議論を目指し、他者を鏡としてさまざまな自己発見をしていきたいと考えています