人が、人であるからという理由だけで、与えられるべきものは何か。
誰がそれを与える責任があるのか。
それはすべての人に共通なのか、人によって強弱・優先順位などの差異があるのか。
基本的人権とは何か。
人間とは何か。
この問いは、人間が作り出したアイデンティティの枠組みをも人間の思考を規定する言語をも超越し、普遍的に、個々の人間の時間を超えて、生き続けている。
もちろん、中国人・日本人という枠組みをも超えて、である。
社会的正義分科会では、普遍的正義があるのか、あるとしたらそれは何であるのかを中心的な問いと した。しかし、抽象度の高い議論ばかりをしてもあまり実りがないとも思われたため、自分が自分の国、相手の国において、具体的に「正義」「不正義」を感じる場面はどこであるか、なぜそれに不正義を感じているのかをそれぞれ共有し、北京セッションではそのうち経済的格差、ジェンダーの問題について扱った。中国人と日本人の「正義を語る言葉」、つまり、功利主義や自由主義の理解の仕方は一致していて、中国人であるからとか日本人であるから正義観が違う、ということはなかった。しかし、これらの問題の間では割れた観点もあり、北京セッション後の中間発表ではその差異に着目した発表、すなわち、この二つの問題に対する現状認識の差が浮き彫りになるような構造を意識した。
私の感想文は、同じ社会的正義分科会の中山さんのものを補完する形で後者のジェンダー問題を中心にしたいと思う。
少し恥ずかしい話から始めさせていただきたい。
事実はもう少し複雑である。性的マイノリティにも多くの種類があり、最近よくLGBTQ(Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, Queer)と言われるように、それぞれ若干異なるものを求めている。一般化してしまうとその内部での複雑なintersectionality失われてしまい、それぞれの個性を無視することになってしまう。大学に入ってLGBTQ問題にニュース等で触れ、また個人的な知り合いにLGBTを自認する人が増えるとだんだんとその差異の重要性がわかるようになった。だが、日本の私立中高一貫校に通い、性的マジョリティの一員であった私は、少なくとも高校までではそのような考え方に触れることもなかったし、おそらく大学での所属コミュニティが違ったら、LGBTQの人が現状で問題を抱えていることに対する関心すらもたなかっただろう。
もう少し恥ずかしい話をしたい。
日本では現状、憲法24条で、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とされていて、字句通りに解釈すると同性婚が憲法上禁止されている。まだ裁判所にもその合憲性・違憲性の問題が提起されていないのは、多くの場合同性愛者が結婚できる、というそもそもの発想が浸透していないからであろうか。比較的プログレッシブな渋谷区でさえ、同性婚が認められたというニュースが耳に新しいくらい。もちろん、同性婚が性的マイノリティの問題のすべてであるとは到底言えないが、一つの指標としてあるのは確かで、日本ではその指標に対する国民意識すらあまりない。
しかし、この恥ずかしい現状は、日本だけではない。中国では、数か月前に放映されていた二人の男優の恋を描く人気のドラマが放映禁止になったり、ゲイバーへの締め付けが厳しくなったりと、LGBTQへの理解が政権からも民衆からもあまりない。
日本と中国の正義と不正義について調べていく中でこれらの不正義が浮き彫りになった。
この二つの話は、個人としても、一国民としても恥ずかしい話である。国民としては、これは明らかな不正義の事態であるから恥ずかしいと思う。なぜほかの人は自由に結婚できるのにLGBTQの人はその権利を持っていないのか。国のもとで平等ではないのか。仮に多数派が反対していたとしても、なぜそれが権利抑制の理由として使われていいのか。そんな国家に所属している私もその責任を負うのではないか。
だが個人としてこれが恥ずかしいのは、マイノリティであるができない、それなのに理解したつもりになってしまうことである。彼らの苦しみはおそらく私には理解できない。でも、だからこそ、本来は理解した気にならず、なるべく彼らに寄り添う必要があり、それで彼らが望む社会的態度をとらなければいけない。そして彼らも納得できて包含できる正義の法則を作らないといけない。
LGBTQの事例を掲げたが、この構造と同じ問題はほかのすべてのマイノリティに対して当てはまるといえる。女性の育休問題について議論した際、やはり男性の参加者は子供を産み、育てるというのがどういうことか、その後のキャリアを持つのがどういうことかをあまりイメージできていなかった印象を受けた。企業や議会におけるの話を北京セッションでした際、意外にも女子のほうが男子よりクオータを否定した。それは、クオータを導入することで女性が優遇の対象、努力をしていないもののように見られることを懸念して、であった。
そしてまた、その「理解したつもり」というのは、中国人と日本人との関係でもいえた話であった。北京での中間発表では、中国人であるからとか日本人であるから正義観が違う、ということはあまりないと発表したが、それは個人的にはある種の怠惰のように感じられた。ジェンダー問題に関しては、北京と東京での「正義」のぶつかりがあった、からだ。ジェンダー問題において、中国と日本との間には女性の評価・子育ての方法の違いという、社会的コンテクストの差が明白にあった。確かに、いわゆる「正義論」の段階(自由・平等・功利)では中国人も日本人も特段異なる考え方をしていなかった。でも、その内実の定義の仕方はそれぞれの個人でかなり違ったように感じられた。そしてそれは各自が当然として育てられた正義観で自己完結的に説明されているように感じた。
普遍的な正義を作り出すことは簡単だと思う。誰しも、平等とか功利とか幸福が悪いとは言わない。だが、それに基づいてより具体的な政治的決断に至ろうとするとき、あるいは社会的な問題・バイアスを評価するときには、よりシビアな、具体的コンテクストの分析が必要である。普遍的正義の問いばかり立てる日本側の学生に対して 、北京の学生がそう挟み込んだ。事実、そうだと思う。原理として「正義とは」について語れたとしても、その原理のあてはめ方は人次第であり、原理的に正しいことをしても結果がよいとは限らない。
京論壇2016 社会的正義分科会
有元万結