少し本題と離れたところから話を始める。
―我々のする選択は完全に自分自身の意思に基づいたものか?
―たとえ自分自身の意思に基づいていたとして、その「意思」は本当に自分自身のものか?
社会のシステムと社会規範によって限定された特定の選択のみが提示されたり、ある選択を周囲の他者から強制されたりすることもある。意思決定のプロセスにおいても自分の接する情報によって大きく影響を受けバイアスを持った状態で選択を決定しているのではないだろうか。
これは多様なレベルで起こっている。一個人としても、家族、企業、学校など特定の社会集団の一員としても、人種、性別、出自など特定のアイデンティティを持つ者としても、様々なレベルでこの外的要因による影響を受けている。
所属する高校によってそもそも大学進学以外の選択肢が提示されない、逆に、就職が推奨されて大学進学が選択肢として与えられないという場合。家族の経済状況によって、大学進学を選べない、または選べても学費を払える特定の大学しか選択肢として持つことができないという場合。父親が医者だという理由で親からの圧力により医学部しか選択肢として与えられないという場合。
特定の社会規範によって地方の出身の生徒や女子生徒が東大を目指す際に周りの人に反対された、浪人を許されなかったという話は東大の周りの友人からよく聞く話である。女性であるがゆえに理系進学を躊躇った、周りに反対されたという事例もあるだろう。
僕自身、周りの高校の友人が東大を目指すという周囲の状況、高学歴の方が仕事を選ぶ際に概して有利だという社会の構造やレベルの高い東大では良い授業が受けられるという幻想など、様々な外的要因によって東大受験を後押しされた。
―我々はみな同じように社会を認識し、解釈することができるのか?
―我々がある事象を「間違っている」「正しい」と考える時、そのものの見方や解釈は普遍的であり得るか?
これらも真であるかは極めて怪しい。
ある教授がこう言っていた。
「僕らは色眼鏡をかけてしかこの社会を見ることができない。」
その色眼鏡は僕らの生きるコンテクスト、社会状況、社会規範によって形成されているものである。
例えば、大学進学の例で言えば、
「女性は東京の大学に行く必要はない。地方の地元の大学で十分なのに、あの子はなんでわざわざ東京に進学したのだろう。」
「理系学部は男子が進むもの、女子は数学が苦手だから文系に進むべき。女子なのに理系の勉強をしたいって変わり者だね。」
「偏差値の高い大学に行ったって、結婚に苦労するし、どうせ働き続けられないから宝の持ち腐れ。女の子は東大に行く必要はない。うちの子が東大のために浪人するのは反対だ。」
こういった見方は、本当に正しいものと言えるだろうか。
僕らが認識しておかなければならないのは、自分自身の思考や認識、「当たり前」や「思い込み」が社会によって大きく規定されており、普遍性を欠いたひどく限定的な見方しかできていない可能性が高いということ、それによって他者への想像力を欠いてしまうということだ。
ではこれらを踏まえた上での、京論壇ジェンダー分科会の意義とは何か。
それは僕らのかけている色眼鏡を規定するn個の変数のうち、2つの変数を弄ってみるという試みを行うことだ。
1つはジェンダー。もう1つは国。
この2つはほとんどの場合変えることができず、生まれつき無作為に決定されるものである。
ジェンダーについて。
男性が女性に対してバイアスの掛かった見方で見て、考えて、接している。かつ、その見方にバイアスが掛かっているということをメタ的に認知できていない。それゆえ女性側の想いにまで想像力を巡らせることができない。これらは女性に抑圧的な社会を作り出し、是正が進まない一つの大きな原因ではないだろうか。(女性から男性への見方、セクシュアルマイノリティへの見方も同様。)当事者としての視点に想いを巡らせることが出来なければ、子育ての大変さも分からないし、産休・育休がどれほど重要なものなのかも分からず、当事者の陥っているジレンマも理解できない。
選択に関しては「思い込み」の結果は自分に返ってくる。しかし、他者への認識においては、「思い込み」によって知らず知らずのうちに他者に対して大きな負担を強いていたり、何らかの害を及ぼしていたりする可能性がある。
僕は去年の春、受講していたゼミでマタハラ被害にあって訴訟中の女性のお話を伺う機会に恵まれた。正社員としてのびのび働いていた会社で、妊娠を告げた途端に解雇をちらつかせながら契約社員への移行を要求された。度重なるハラスメント。周りに共感し協力してくれる存在がいない状況。そこには、夫の理解不足の中で、出産、子育て、家事と職場での人間関係、自分自身の思い描くキャリアの中でジレンマに苦しむ女性の姿があった。
恥ずかしながら、僕はその時まで女性のキャリア、女性の労働問題、など自分には全く関係ないどこか遠い話だと見ていた節がある。(その方の旦那様もそうであったようだ。)男性目線の考え方に固定され、それが当たり前だと思い込んでいたのだ。実際のところ、僕自身だって自分の友人が、パートナーが、職場での同期や部下が同じような問題で苦しむ可能性だってある。
むろん、今だって、自分自身の視点から完全に脱却してこのような問題を見ることができているというつもりはない。だが、最低限、自分の視点が非常に偏ったものでありうるという事実は意識できるようにしたいと思っている。