社会が分断していると言われている。昨年アメリカに留学していた際、大統領選の盛り上がりと相まって人種による差別の存在を肌で感じた。彼の地では、同じ言語を話し、似たような文化の影響の下で育ってきたはずの人々の間に、肌の色が違うだけで越えられない壁があった。食堂で学生たちが人種毎にまとまって食事をしていたり、マイノリティが嫌がらせを受けたりという光景は、「多様性が尊重される国アメリカ」という留学前の私の幻想を覆した。
閑話休題。京論壇に属してからエリートについて考えることが多い。エリートとは何か。何の仕事をする人たちか。世間一般に東京大学の学生はエリートだとされているし、彼らも多くはその自覚を持っているだろう。同期や先輩を見ても、実際に多くが官僚や弁護士、政治家といったような職業に就くし、私自身も生涯を通してエリートとしての役割を果たしたいと考えている。そうした似たような進路を考えている学友と互いの価値観をぶつけ合い、自らの社会における役割について議論をする機会があることは恵まれている。一方で、エリートの役割を彼らだけで考えることの限界も感じる。もっと多様な成り立ちをしている社会からのニーズに対応して初めて存在意義を持つからである。社会から隔離され守られた中で想定されたエリート像を追求することは、自己満足にしかすぎないどころか社会にとってマイナスにすらなるだろう。
冒頭の問題意識に戻れば、私はここに「他者を理解し他者に共感することの本質的な難しさ」に似たものを感じるのである。それはすなわち、限られた環境の中で育ったエリートが社会全体の意向をくみ取ることの困難さである。近しい友人ですら時に何を考えているのか分からないことも多いのに、そもそも名も知れぬ他者のことを理解できると考える方が傲慢なのかもしれない。私はアメリカで、人種も宗教も違う他者とはそもそも分かり合えないという一種の諦めに似た感情を人々の間に見たが、それでもなお分断を乗り越えようとする試みや思想が社会を何とか一つに束ねているのだということも実感した。アメリカであれば、自由や平等に代表される社会に通底する理念がそうした鎹の役割を果たしているのだろう。
日本における一般社会とエリートの間にある壁を、背景も成り立ちも違うアメリカ社会の分断と比較するのは適切ではないかもしれない。しかしアメリカで人々が社会の分断に抗う様子は日本での分断にも示唆を与えてくれる。「自分たちの間しか通用しない、社会から遊離した議論になってはいないだろうか」と日々自問し、居心地の良い環境から抜け出そうとすることが、冒頭述べたような「本質的な難しさ」を克服し、一般社会とエリートの間にある溝を取り除くことのできる唯一の作業なのでないか。ここでは、少しの社会経験で容易に一般社会を理解した気になるのは危うい。むしろ「他者は理解できない」という一種の諦めがあってこそ、他者にきちんと向き合い、自らとの間にある溝の克服を試みようとする動機が生まれるのではないかと思うのである。
教養学部4年 橘高秀