当時は、この褒め言葉にサンキューと気軽に言ったが、展覧会を見つつある疑問が私の中に浮かんできた。なぜ彼は私のことを若いエリートだと言ったのであろう。彼と私は5分にも満たないほどの短い間話しただけであるが、いったい何を根拠としてそういったのであろうか。彼が私をエリートと表現した根拠は一つだけしかないことが予想できるだろう。東大生という学歴。
考えてみると、エリートであると言われたのは初めてではない。高校に通っていた時もよくこのような褒め言葉を耳にしていた。自慢話になってしまうが、私の出身校は母国の韓国でトップ校と言われるところの一つであり、その当時も出身校がここですと話すと、周りの人々によく「これから立派なエリートになれ、エリートであるからもっと頑張らなきゃ」などと言われた。
また、上記のような政治的な意味としてのエリートだけでなく、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなど技術、経済などをリードした様々な面でのエリートも考察に入れてみよう。ビル・ゲイツはハーバード大学、ウォーレン・バフェットはペンシルベニア大学出身であり、彼らもやはりその多くは高学歴であった。
だとしたら、トップ大学を卒業したこと=エリートと言えるのであろうか。また、トップ大学とは、このようなエリートの多くを生み出したため「トップ」であると言われ始めたのか?
語源に基づき、エリートをただ単に「選ばれたもの」「選別されたもの」としてみると、皮肉なことに我々の社会には、ギリシャ神話と違って誰がエリートであると選んでくれる存在がいない。そのため、人々は受験という制度を借り、この制度で「選ばれた存在」をエリートとして捉えているのではないかという思いに至った。
しかし、だとしたら高学歴の人のすべてが果たしてエリートであると言えるのであろうか?正直なことを言うと、私自身は私のことを一度もエリートだと考えたことがない。このような私の思いは東大を卒業したら変わるのであろうか。私は大学卒業までに、エリートとしての素質を備えることができるのであろうか。それとも、実は学歴ではエリートであるかないかを測れないのではないだろうか。だとしたら、エリートの基準はなんであろうか。
これらの多くの疑問に決まった答えはないだろうが、これらについて考えていくことが、今年のエリート主義分科会の課題であると思う。一つの真理があるわけではないが、これらについての議論は我々の社会を理解するために役立つことは確かであろう。
ここで私は他の分科会にも、また、このコラムを読んでいるすべての方々にも聞いてみたい。
あなたはエリートですか?あなたが考えるエリートとはどのようなものですか?
教養学部2年 ソンジヒ