こんにちは、エリート主義分科会に所属する教養学部4年の川村です。エリート主義分科会ということで「エリート」を起点に考えていきたいと思います。それでは本題。
「エリート」。私たちは様々な形でこの語を使う。肯定的な意味や否定的な意味として。また自己認識や他者評価として。しかし、それではエリートとは一体何だろう。京論壇への応募を決めた時点から考え続けている問いだが、答えは遠い。実際、この問いを前に味わう「考えれば考えるほど分からなくなる」感覚は、ゲシュタルト崩壊のそれに近い。意識せずに使用する分には当たり前に成立していたはずのものが、意識的に考えはじめると歪な記号のように思えてくる。この体験は今まで意識することなく他者にそのような記号を押し付けてきたツケと言えるのかもしれない。このようなことを感じていたら、同時にこの歪な記号を元にして様々な言説がなされていることに対する違和感も生まれた。
話は飛ぶ。私は留学先の大学の授業を終えた後、ポーランドのアウシュビッツを訪れた。そこには間違いなく一つの破滅の形があった。そして、二度とこのような事態に至らないこと、それがその後の時代を生きる我々に課せられていると強く感じた。しかし一方で、あまりに途方も無い犠牲者の数を前に十分な実感がわかず、強烈であった印象が時が経つにつれ自分の中で薄れていくのもまた事実であった。現に、人は自ら経験したことですら緩やかに忘れていく。ましてや他者の経験を実感として受け止め記憶し続けることは容易ではない。加えて、当事者と体験を共有していない他者が当事者の体感を判断することは、必ずしも肯定できるとは限らない。それでも我々は社会における事象を知り、その上で政治的決断を行なっていかなければならない。それが民主主義社会というものではないだろうか。
我々は現在、民主主義社会の中で生きている。この社会は基礎理念として自由で平等な個人を前提としているのではないか。そうであるとすれば、なぜ「エリート」などという漠然とした概念を元とする集団に義務を付加するような言説が生じるのだろうか。例えば、エリートに対する批判として、「エリートは社会問題に対して当事者意識を欠く」というものがある。確かに、その批判は的を射ているのかもしれない。政策決定に携わる権力を持つ人間が、その決定の影響を受ける他者に対してより敏感な感覚を持つべきなのは確かだろう。しかし、自らの意見をもってそれが社会の総意であるかのように語る大衆は、少数者に対して理解を示そうとする姿勢を取っていると言えるのだろうか。ある集団をエリートとして持ち上げることも、少数者として排斥することも、虚構的な集団を少数者としてくくり出すことにより多数者の地位を守ろうとする姿勢としては同じなのではないか。
確かに、「大きな力には大きな責任が伴う」のかもしれない。しかし、その仮定を受け入れたとしても、それはつまり個々人の持つ権力に比例した責任が存在するということであり、いわば全ての人は等しくなんらかの責任を持つということではないか。仮に「自らがエリートである」という自己認識に基づく行為が存在したとして、確かにそれは自らが優越的な地位にあるという傲慢さの表れとして受け取ることもできるのかもしれないが、一方でその行為の前提を「エリートだから」ということではなく民主主義社会における「自律した個人」としての行動規範に求めることも可能であり、実状としてはむしろ後者のように捉える方が妥当なのではないか。また、逆に特定の他者をエリートとみなし社会的な義務を押し付けてばかりいるとしたら、それは本来その個人がなすべき義務に対する怠慢と取られても無理はないのではないか。人々が等しく自由であると想定される社会において、ある集団だけに負担を課そうとする考え方には正当性を感じられない。
これからの社会がどこに向かっていくのかは私には分からない。しかし、我々が自由であり続けるためには、漠然とした他者、たとえば「エリート」に期待するのではなく、現在の民主主義社会の中で個々人が社会に対して関心を持ち、他者を尊重しつつ自律的に行動していく必要があるのではないか。行動したところで、必ず自由になるとは限らない。けれども、自由であり続けるためには我々は社会に対して働きかけ続けていかなければならないだろう。
教養学部4年 川村駿太