「私は黒人であると偽ってメディカルスクールに合格した」というインド人男性Vijay Chokalingamの告白が2015年に大きな話題となったことをご存知だろうか。当時あまり成績の良くなかったVijayは、インド人として出願すれば「多様性」の観点から不利になると考え、アフリカ系のふりをして出願することで見事合格者平均GPA3.7をかなりに下回るGPA3.1という成績でアメリカの難関医学部に合格したのだ。
もちろん大学側もこの状況を等閑視しているわけではなく、女子学生向けの大学案内やOGによる母校訪問、そして昨年話題になった家賃補助などの手を講じることにより女子学生の比率を高めようと努力している。しかしここ10年以上にわたって女子比率の上昇はほとんど見られず、これらの間接的手法による女子学生比率向上には限界があることがうかがえる。ここでより強力な手段として検討されるのがaffirmative actionだ。
東京大学をはじめとする日本の大学では未だaffirmative actionはほとんど行われていない一方で、アメリカの大学入試においては人種等によるaffirmative actionはかなり一般的に行われている。
まず不利益を受ける側からの批判としてはAffirmative action自体が逆差別であるという意見が挙げられる。
実際に私の二ヶ月弱のカリフォルニア大学バークレー校での留学生活でも、度々affirmative actionの是非が議論され、アジア系を筆頭にほとんどすべての学生が制度を強く批判していた。バークレー校はアメリカでは珍しくaffirmative を採用していない大学であり、同様にaffirmative actionを採用していない名門大学としてはマサチューセッツ工科大学、カリフォルニア工科大学等があげられる。一方、アイビーリーグと呼ばれる東海岸の名門私立校8校を始めとする他の多くの大学は皆入学試験に人種を中心的な基準とするaffirmative actionを適用している。一般的にAffirmative actionにおいて有利になるのは主に歴史的経済的に不利な状況に置かれていたアフリカ系、ラテン系であり、不利になるのはアジア系である。実際にaffirmative actionを採用していないバークレー校は、アジア系の比率が約43%と極めて高くアフリカ系の学生は2.5%にとどまっていることからもその効果はうかがえる。
実際にaffirmative actionに対する批判をよく表しているのが1996年の白人女性ホップウッドによる訴訟だ。彼女はテキサス大学のロースクールに不合格となった。しかし彼女は彼女よりも学業成績の劣る受験者が合格し、自分が白人であるというだけの理由で不合格になったのは不当であるとして提訴したのだ。
この提訴の背景にある不満のうちのいくつかを考えてみよう。まず1つ目の不満としては「先祖の行為に対する償いのために現在を生きる子孫が不利益を受けることは正当化されるべきでない」というものが挙げられる。
また同様に、人種という基準自体が不適切だという批判も想定される。ホップウッドの例で言えば彼女は白人ではあったが裕福ではなく、働きながら高校を卒業するという比較的苦しい経済状況にあった。白人でも貧困にあえぐ人々もいれば、アフリカ系やメキシコ系にも非常に裕福で優れた教育を受ける機会を多く持つ人はおり、人種という基準よりも家庭の収入の多寡の方がよりふさわしいという意見もある。
さらにこと現在のアメリカの大学のaffirmative actionにおいてはさらに複雑な問題が存在する。それは私たちにも深く関わりのあるアジア系学生の扱いに関係する。本来アメリカにおける歴史的背景を考えるならば、アジア系もまた差別を受けハンデを背負わされてきた側である。にもかかわらずアジア系は成績が全体的に高いため優遇措置の対象とはならず、むしろ白人よりも不利となる。留学中にバークレー校で多くの友人が批判していたように、新たな人種差別であるとも捉えられるのだ。
インドの入試においては低カースト出身者への強い優遇措置が存在する。だが低カースト出身の医師にかかりたがる患者は少なく、低カースト出身者のエンジニアを雇いたがる企業は少ないそうだ。これはもちろん伝統的な差別感情が残っている場合もあるが、より重要な要因は、「超優遇措置で入学した彼らが他の学生と同じだけ優秀なわけがない」という考えだという。企業や患者の「優秀な人を雇いたい」、「優秀な医師にかかりたい」という妥当な目的のためのある種合理的な判断がますます実態を悪化させているのだ。
この問題はあらゆるaffirmative actionにおいて優遇される集団に対して生じると推測される。特に卒業が非常に容易で入学試験を突破したということに大きな意味のある東京大学においては問題は根深いだろう。それゆえもし東京大学で女子に対するaffirmative actionを行えば、前述したインドの例と同じように女子学生全体が就活時等に男子学生と同じだけの能力を持っていないという色眼鏡で見られる危険性は大いにある。affirmative actionにより恩恵を受ける側に対しまた新たな差別が再生産され負の連鎖は終わらない。女性である私個人とて、十分な能力を持って入試を突破したにも拘らず、入学後「女子だから入学できたんだろう。男子学生には劣る可能性が高い」など考えられるのは当然真っ平御免だ。
色眼鏡で見られる女子。点数が十分でも不合格になる男子。入試制度と多様性をめぐる憂鬱は容易に晴れそうにない。
文科一類2年 土屋晴香