われ思うゆえにわれあり、という言葉をご存じであろうか。意味は詳しく知らなくとも、どこかで聞いたことはあるのではないだろうか。
わたしはこの言葉を高校の倫理の授業で習った。真実を探求しようとするため、ひたすら疑い続けた偉人が遺した言葉である。
われわれは疑うことを忘れてはいないか。これが、私が昨年度の京論壇の議論を通して学んだことであった。
私はいわゆる「優等生」であった。
実際、私の考えていたことは多くの日本人が思っているのと差異はないだろう。文部科学省の教育の賜物である。
私が固定観念の塊であったと気づかせてくれたのは京論壇の議論であった。
日中交流サークルはたくさんある。
その中で京論壇が際立つのは100時間以上にわたる長い議論時間であろう。腰を据えてじっくりと話すことができるからこそ、深く、本音の会話が生まれる。
「どうして私たちに民主主義を押し付けるのか?私たちには私たちの正義がある。」
議論三日目、北京側参加者はすこし穏やかならざる雰囲気で私たちの問いに答えた。
私たちは「どうして中国は早く民主化しないのか?」と問うたのだ。
この問いは私たちからしてみれば特に不自然でもなく、よくワイドショーや雑誌で言われているものであった。
しかし、北京大生からしてみれば、上から目線であり、価値観の一方的な押し付けにしか過ぎなかったのである。
「中国は未だに発展段階にある。だから安定性(stability)が一番重要であり、それを揺るがすような動きはコントロールする必要がある。」北京大生の一人はこう主張したのだった。
私たちは民主主義にどっぷりつかっている。物事をきめるときには、基本的に多数決で決め、それを「民主主義だ」と正当化する。しかし、浸かりすぎているあまり、私たちは民主主義以外の価値観を認めようとはしない。
そして、異質なものと対峙したときに葛藤が生じる。
双方盲信するあまり生じる葛藤は「民主主義」と「独裁主義」に限った話ではない。
ふだん、私たちが生活している中の気づかないところで思い込みは生じる。
ところが、その「どっぷり浸かっている」ということに気づくことは容易ではない。自分とは異なる相手と接しない限り、自分自分の価値観を疑うことすらできないのである。以前の私がこの証左だ。
京論壇で議論するテーマはなにも政治体制に限ったことではない。
自分とは異質な存在に出会う場。
京論壇は日本対中国という枠組みだけではなく、さまざまなバックグラウンド、考え方を持った人材が集結する場である。
この夏、自分とは異なる存在と議論することを通して、自分の価値観を疑い、そして、さらに深く知ってみるのはいかがだろうか。
京論壇がその環境を提供できるのは、確実に保証しよう。
教養学部総合社会科学国際関係論4年 新城真彦