こんにちは、権力とコトバ分科会、1年生の丸山です。今回は、この半年間での京論壇の活動を通して自分が感じたことを共有したいと思います。どうぞ最後までお付き合いください。
突然ですが、話が噛み合わないな、と歯がゆい思いをしたときのことを思い浮かべてみてください。そのとき、会話が噛み合わなかったのはどうしてだったのでしょうか?
言葉足らずな説明だったのか、論理に飛躍があったのか、はたまた前提としている知識が違ったのか、意見が全く異なっていたのか、同じことを話しているつもりで全くちがうことをお互い思い浮かべていたのか、原因は色々考えられるでしょう。
これらは、個人のレベルでいつでも起こりうる些細なことです。しかし、これが国家のレベルでも起こっているとしたらどうでしょうか?同じ出来事や事柄について話していても、社会的文化的政治的教育的なバックグラウンドや知識、認識、感情の違いによる小さな意見の違いと違和感。今日はこれについて話していきます。
京論壇では9月と2月に1週間、北京大学と東京大学の学生が(今年はズーム上で)集まって議論をします。事前に各々が話したい議題について入念に準備したうえで議論に臨みます。私たちの分科会は、ときに1つのことにとことん深く、ときにさまざまな話題への発展、錯綜、迷走を繰り返しながら、話題は尽きることなく、なんとか1週間話し通したのでした。
自分と話した北京大生は、頭脳明晰かつ博識であるばかりか、自分の意見を表明するのが上手でした。そんなリベラルな彼らと話してはっきりと分かったことは、同じ10代20代の若者として多くの問題意識を共有していることでした。国が違えど思いのほか考えていることは同じ、なんだか拍子抜けするような感じでした。
しかし、違いはびっくりとするようなところに潜んでいるものです。事の発端はこうでした。あるとき「人権」という言葉を自分が持ち出しました。すると、あっという間に話題は普遍主義への疑念、西洋中心主義の功罪、文化多元主義の尊重などなどに飛んでいくではありませんか。議論としては納得のいくものでしたが、なぜ話がこう進展してしまったのか、大きな違和感が残りました。
これが腑に落ちたのは、議論が終わってしばらくした頃の勉強会での議長の一言でした。中国国内では、人権という言葉は、「人権侵害」が行われているという欧米メディアによる政府への攻撃の文脈でしか主に使われないのだと。多くの人に、人権侵害は欧米メディアのプロパガンダだと捉えられていると。また、最近でこそ憲法に人権に関する条項ができたものの、政府は国内向けにはそういうことは言わず、むしろ秩序と安定を重視する政策をとっているため、包括的な人権という概念がそもそもない。あくまで個々の権利が存在するだけのようなのです。これらは、人権という言葉が、西洋のものであり中国のものではないということを明白に示しています。
一方、日本はどうでしょうか、人権はなぜ当たり前なのでしょうか。思えば、人権の大切さは人権標語を書かされた小学校の頃から教わっていた気がします。日本国憲法にある「基本的人権の尊重」も大事なこととして習いました。どうやら、自分の人権に対する意識は教育の結果と言えそうです。そもそも人権はフランス革命の頃にできた概念です。政府や国家は人々の権利を守るために存在するという、近代的な民主主義国家の根幹となる考えが人権です。こうなると、中国は民主主義国家なのか、という疑問が湧いてきますね。でも、これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。
とにかく日本の多くの学生と違い、西洋中心の世界に疑念を常々持っているように思える彼らが、以上のような背景を踏まえると、人権という言葉を相対的に、そして否定的に捉えて当然だと自分は感じました。こんな彼らと「人権」について議論したらどうでしょうか。たとえ人権の定義について合意に達したとしても、各々が持っているその言葉に対するイメージが違いすぎて、話が噛み合わないのではないでしょうか?
言葉には定義とイメージがあり、定義を辞書的に決めたところで、その実際の意味はイメージによってねじ曲げられてしまうのかもしれません。言葉には限界があります。その力を決して過信してはいけません。(僕のこの言葉を使った説得には納得していただけたでしょうか笑)
このように話が噛み合わないときは、自分と相手の、知識の前提、認識の差異、価値観の相違を慎重に検討する必要があります。難しいですが、これが浮き彫りになるのが京論壇の醍醐味でもあるのではないかと思います。
ここまで読み通してくれたみなさんは、自分が5ヶ月かけて考えたことを5分で知ってもらえたわけですね。こんな感じで、京論壇では自分の話したいことを持ち寄り、個人や国家など重層的なレベルでの価値観の違いについて考えています。もしみなさんが京論壇に参加したらどのようなことを感じるのでしょうか?思いもよらなかったことに話が行くかもしれませんね。
ここまでどうでしたでしょうか。この話を面白いなと思った人は追体験に、くだらないなと思った人はよりよい議論のために、2022年度の京論壇に参加を検討してみてはどうでしょうか。少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいです。