国家政策と正義分科会・渡辺
私が参加しているのは「国家政策と正義」の分科会です。9月セッションでのテーマはコロナと教育政策の二つでした。ここでは正義とコロナ関連について書きたいと思います。
正義
事前準備で分科会のテーマの大枠が決まったのち、正義そのものについての勉強会で、功利主義、価値相対主義、共同体主義などの諸々の主義·主張についての知識の共有がなされました。その上で、9月セッションではまず、概念としての正義の定義から始めることにしました。第一回目の話し合いでは、抽象論としての「正義」の議論はこちらの想定ほどは深まらずに終わってしまいました。一方で、正義という言葉に関連する平等、公正、公平などの言葉との比較を通し、正義は手続きの正当性の根拠や結果だけでなく、権力の適切な使用の基準を表すものではないかという点に達しました。正義と国家のどちらが先に存在するものかという議論では、東大生側には正義の実現を通して国家の正当性が認められるという意見が多かったのに対し、北京大生側からの意見は国家権力があって初めて正義が存在するというものと思われ、過度な一般化はできないものの、違いが見られました。
コロナ関連
まずは日中のコロナ対策についての知識の確認から始まりました。議論の中心となったのは「ロックダウン」と中国で行われている感染者の行動追跡のためのデータ収集でした。中国で行われたロックダウンに関しては持病のある人の通院が困難になっていたことの指摘が、データ収集についてはプライバシーの侵害に繋がるという指摘が北京大生側からもありました。政府は国民の生命を守るという大きな義務を負っているため、政府が強制力のある政策を行わなければいけない場合があるという点で一致した上で、そうした政策を行うには政府は国民からの信用が必要であること、そして、政策の根拠などを示す説明責任を果たす姿勢、政策による制限に対する補償や考慮を十分に行うこと、政府が自身の権力について自覚を持つことが必須事項だという意見で一致しました。
9月セッションの全般に関しては、具体例の議論を抽象的である正義の議論に絡めるのが難しく、不十分に終わってしまいました。また、到達点も物足りないところがあると感じました。意外だったことは、武漢におけるロックダウンの状況を内部から発信した人への取り締まりがあったことへの言及が北京大生側からあったことです。また、話し合いの中で、欧米のワクチンについては、私企業が製造しているものなので信頼できないというコメントがあり、これは暮らしている社会の違いから生じる感覚の差なのかとは想像しつつも印象に残りました。
コロナ以前の完全な形でなかったとは言え、コロナ禍のもとでもセッションができたことは良かったと思います。ここでは取り上げなかった教育関連の話し合いについては、記事では読んだことがあった社会問題について、現地にいる北京大生側の感じていることを直に聞けたのはとても良い経験だったと思いました。他にも、気にはなっていたが、手に取ったことのなかったマイケル·サンデルの著書も参考として今回のセッションを機に読み、更に知識や見方を深めることができました。アラムナイの方などからのアドバイスを参考にして同じ分科会のメンバーたちと東京セッションで議論をしていきたいと思います。
W. A.