香港に着き、地下鉄での移動を経て初めて地上に降り立ったとき、最初に感じたのは四方八方を高層ビルに囲まれている圧迫感だった。実際、香港での滞在中に目にした景色のほとんどは産業用の高層ビルで占められており、低層の戸建て住宅にはほとんどお目にかからない。東京のビル街がゆとりあるものにすら思えてくるある種異様なその光景の中で、ごく一握りの富裕層を除く多くの人々はどこに住んでいるのだろうか。
京論壇和解セッションで実施したフィールドワークでは、現地NGOの協力を得て、subdivided unitと呼ばれる香港の狭小住宅を訪れた。人がすれ違えないくらいの狭い通路を抜け、廊下の奥の部屋に入ると、そこには母子二人が二段ベッドで生活している10畳ほどの空間が広がっている。本来は4部屋で一つの家を構成するはずの1部屋ずつを、それぞれ違う家族が分け合って住んでおり、各部屋の前に無造作に置かれた大小様々な靴が、そこに住む人の多さを物語っていた。母子のうち母親は、持病の影響でコロナ禍に予防接種を受けられず、保育士の仕事を退職。訪問時不在だった息子は来年大学入試を控えているという。
母子が入居したのは知り合いの紹介で、住み始めて既に5年が経過していた。住宅不足の香港では、借り手より家主の立場が強い。そのため、契約更新の度に賃料が上がり、同じ場所に長く継続して済むことは難しいのが普通であり、据え置きの家賃で定住できる母子の境遇は恵まれたものだとも言える。部屋の中央には政府の補助金によって購入された日本製の電化製品も備えられており、穏やかな笑みを絶やさない受け答えの様子を見ていると、事前情報から想像していた貧困や悲惨といった形容が躊躇われるような印象も受けた。とはいえ、生活に必要な全てを一部屋に詰め込んでいるため、窮屈な印象は否めない。なにより、思春期の息子がプライバシーのない状態で母親と共同生活を送っている点は、自分自身の数年前を思い返してみて、耐えがたいようにも思った。
現在は香港に落ち着く初老の母親は、かつて中国の深圳で働いていた経験を持つ。流暢な中国語を話し、同行した北京大の学生とは、何の問題なく意思疎通ができていた。しかしそこで交わされる言葉は、未知の何かを探るような慎重なものであり、一方的に質問を投げかける、一度きりのインタビューにならざるを得ない。
あけすけな質問の数々に、「なんでも答えるよ」と快く応じてくれた彼女の目に、突然訪問してきた異国の大学生である京論壇メンバーは、どのように映っていたのだろうか。その多くが、日本あるいは中国で豊かな教育を享受する(口幅ったい言い方をすれば)特権的な存在であることを知っていたのだろうか。窓の下に広がる地上の喧騒とは隔絶された空間は、そこで得た記憶の意味を繰り返し問い返すような、不思議な引力を持っていた。
(和解分科会・江野本)