本稿を書くために香港セッションの写真を見返していた。顔合わせの時の最初の集合写真と、一週間のセッションを終えた最後の集合写真を見比べてみた。最初と最後では表情がまったく違う。最初の写真では、顔から緊張が垣間見える。最後の写真はみんな笑顔だ。さらに観察してみると、最初の写真では東大生は東大生の隣に、北京大生は北京大生の隣に立っている。どこか心細さもあったのだろう。一方で、最後の写真では東大生・北京大生が完全に入り混じっている。これが香港セッションである。東大の構成員・北京大の構成員としてではなく、個としてお互い認識しあえるようになった。たとえ違う国から来ていても、個として相手を信じられるようになった。
「差別、抵抗、和解」分科会では、社会階層、ジェンダー、エリートの責任、エイジズムという4つのテーマを香港で議論した。具体的な議論の内容は、最終報告書に譲ろうと思う。ここで述べたいのは、議論の方法である。香港で実際に会って1週間を共に過ごす中で、このメンバーでしかできない議論ができたと自負している。
学生同士が社会問題について議論するとき、表層的な俗説の確認で終わりがちである。たとえば、「日本には・・・のようなジェンダーステレオタイプがある。」「中国では、高齢者の介護に関して・・・という問題がある。」「この問題を解決するには、・・・のような制度を作る必要がある。」「日本人は、もっと・・・のような意識を持つべきである。」といった議論である。極端に言えば、このような議論は誰が参加しても同じ議論ができる。参加者が変わっても、発話者が変わるだけで発言内容は変わらないだろう。誰が参加しても、同じような結論に達するはずだ。
しかし、今回の京論壇は違った。香港では、議論はもちろん、ホテルと議論会場の往復の道のり、偶然乗り合わせたエレベーター、観光客が全くいない食堂、夜散歩した街など、ありとあらゆる時間と空間を参加者で共有してきた。その過程で、セッションテーマに関連する論題だけでなく、将来の夢、専攻分野、好きな思想家、最近読んだ本、プライベートなこと、などさまざまなことをお互い話し、お互い聞いた。こうした交流を通じて、「北京大の人」「東大の人」という単純なプロファイルを超えた、固有性を持ったひとりの人間としてお互いを認識できるようになった。その結果、セッションテーマに関する議論でも、「あなたはどう思うのか?」「私はこの問題についてこう感じている」「私はこの問題に・・・のような点で当事者性を持っている」といった、いま・ここにいる「私」にしかできない議論をできるようになった。私たちは、「東大生として」「北京大生として」ではなく、個人として固有の経験・知識・価値観・考えを持っている。この固有性に根ざした議論ができたのが、京論壇香港セッションの収穫である。
(和解分科会・西山)